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映画鑑賞録

2013年2月18日 (月)

必殺仕事人2013 観終わって

映画ではないですが、映像作品の鑑賞録ということで。

本日放送だった必殺仕事人の最新作の感想です。
あまりテレビドラマの感想は書かないのですが、なんとも
切ないラストだったので……。
大いなるネタバレをしますので、ご承知の上でご覧下さい。

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予告にありましたが、「里見浩太郎が初の悪役!」とのことで、
その辺を中心に感想を書こうと思いますが、便宜上、あらすじも
書かせて頂きます。

まず、基本的な「仕事人シリーズ」の「おきまりパターン」のご説明。

主人公たち、町方(役人)の渡辺小五郎(東山紀之)、
経師屋(ふすまや屏風、巻物などを形にする職人)の涼次(松岡昌宏)、
仕立て屋の匳(れん=田中聖)が、それぞれ表の顔とは別に
「仕事人」となり、依頼人の恨みを晴らす(仇討・暗殺をする)、
というのが、見せ場です。

ちなみに、彼ら3人に仕事を世話する(依頼の窓口役)女性が、
和久井映見演じるお菊。


さて、今回は、気の弱い未熟な医者の青年と、彼をどうしても名医にしたい
父親(里見浩太郎)を取り巻くお話でした。

息子に江戸で評判の名医になってもらいたい父親は、まさに「狂った愛」
を見せます。そこを悪どい廻船問屋に利用され、息子と診療所のために
多くの人を殺すはめになりますが、結果として報われず。

息子は自分では何の治療もできないヤブ医者で、「医師助手」として
雇われた優秀な医師に頼りきりでした。そんな様子を父親に罵られ、
息子は、自分は医者になどなりたくなかった、と言いだします。

そんなある日、急変した患者の対応で医療ミスを起こしてしまいます。
患者は亡くなり、家族とトラブルになります。
息子はそれを、「もとはと言えば、医者の道を無理に押し付けた
父親のせい」と憤り、とうとう「仕事人」たちに、父親殺し(と廻船問屋も)を
依頼するのです。

主人公が親子の家を訪ね、「仕事を果たしに来た」と言うと、
息子は「これで俺も自由に生きられる」と、父親の部屋へ案内します。

父親が何事かと立ち上がると、真っ先に殺されたのは息子。
トラブルになった家族から、「ヤブ医者殺し」を請け負っていたのです。

目の前で溺愛する息子を殺された父親。以前は剣術師範だった
というその父。しかし主人公の手にかかり……

切なかったのは、このシーンです。
父親は今わの際に、「ありがとう」と言うのです。
やっと地獄へ行けると。

父親は息子に、「これからの世の中は、人を倒して出世するのではなく、
人を助けて身を立てる時代になる」と語ります。
さらにその背景もありました。親子は元々武家の出で、父は剣の使い手
として一流で道場を持っていましたが、弟子は減る一方。
病気になった妻の治療費を出すこともできず、死別しています。
だからこそ、父は「武術だけの時代は終わりだ」と痛感したのでしょう。

これらの事情を語る父親は、実に人情味溢れる好人物で、
その一方で、息子のためなら非情な人殺しになる、そんな人物描写
が魅力的でした。

とはいえ、息子に医師としての経験を積ませるために、
辻斬りをして診療所の患者を増やすという手段に、物語の最初から
手を染めている辺り、確かに悪役なのですが……。

と、ここで書いたあらすじはごく一部で、本当はもう少し複雑な話でした。

親というのは、子どものためなら、なりふり構わず動くものなのね。
というお話で、ここは締めたいと思います。

里見浩太郎、初の悪役は、格好いい悪役でした。

2013年1月 9日 (水)

聯合艦隊司令長官 山本五十六 を観て

久しぶりに、邦画を見ました。

きっかけは、先日の日曜洋画劇場、「山本五十六」-太平洋戦争70年目の真実 の放映でした。この作品は2011年公開の、比較的新しい映画です。

これを観ておきながら、一方で、1968年の「山本五十六」のDVDも観ました。

前者は役所広治さん主演、後者は三船敏郎さん主演です。

両者の違いは、もちろん年数が違いますから、新たに分かった史実、
20世紀ではとても表現することが憚られた当時の状況など、
色々な事情で、新しい方が、やや社会風刺的要素が強かったように思われます。

その辺りは、あえて言及しません。

どちらの作品でも共通する、山本五十六の生き方、考え方。

海軍幹部でありながら、日独伊の軍事同盟(=日米開戦)を避けるため、
時の内閣総理大臣 米内光正とともに根回しをする。

しかしながら、陸軍大臣の「後継者を決めない辞職」という策略により、
米内内閣は総辞職に追い込まれる。
かくて次の近衛文麿内閣は、陸軍との共同歩調を重視し、
とうとう、日独伊三国軍事同盟締結となった。

山本はこの時点で、アメリカとの戦いを覚悟する。
しかし、むろんその後も、政府によるアメリカとの交渉は続き、
山本は真珠湾攻撃の作戦を立てながらも、
交渉の成立を望んでいる。

「米英との戦いは何としても避けるべき」と訴え、
「もし交渉が不成立に終わった時は」と問われると、

初めの半年か1年くらいは、暴れて御覧に入れましょう、と答える。
その後のことは、断言できない、とも。

山本ら慎重派の努力もむなしく、とうとう日米開戦不可避となると、
山本は自ら、真珠湾攻撃計画を立案。

その目的は、米軍の主たる艦艇を一気に叩いて、戦意を喪失させ、
有利な条件で早期講和を、というもの。

こののち、山本が一心に望んだのは、早期講和なのだ。

印象的だったのは、軍事同盟締結前のことだったか、
開戦を支持する諸将たちに向かって、山本はこう尋ねる。

「日本には資源がない。米英から大量に買っている資源も、
同盟を結べばストップされてしまうが、あてはあるのか」

それに対して返ってくるのは、精神論ばかり。

むろん、山本のように現実が見えていて、地に足のついた考えを
持った人々も、幾人かいたであろうが、

開戦回避を誰よりも望みながら、最善の開戦案を計画するという、
このパラドックスに悩まされ、実行し、歴史を作り、歴史に翻弄された
人物は、彼を置いて他にいないのではないだろうか。


……なんだか映画の感想というより、山本五十六についての
記事になってしまいました。
まぁ、そんなこともある!

2012年12月24日 (月)

「意志の勝利」 鑑賞録

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ドイツ映画好きが高じて、廉価盤ではありますが、「意志の勝利」を
購入してしまいました。さすがにレンタルはないので……。

レニ・リーフェンシュタール監督による、ナチス党大会の
ドキュメンタリー映画です。
当然ですが、ナチスによるプロパガンダ映画ですね。

映画とは言っても、演説シーン以外はセリフもなく、大半の時間が
パレード映像で、音楽のみです。ナレーションもありません。

製作されたのは1935年、党大会自体は1934年のものです。
しかし、この時代のものとは思えないほどの映像美。

もちろんモノクロですし、古い映画ですから映像ノイズも多いです。
が、撮影手法と言いますか、カメラワークと言いますか、
オープニングからしても、監督のこだわりを感じました。

当時、こんな映像を作った人は他にいないのではないか、と思います。

芸術作品として、一見の価値あり。

内容ですが、時代的にはナチスに一番勢いのあった時期。
多くの国民の支持の下、ヒトラーが政権を取った時代です。

ヒトラー総統の演説で印象に残った言葉は……
「勇敢であれ。だからこそ平和を愛せよ」
「国が我々をつくるのではない、我々が国をつくるのだ」
「ドイツのために、国のために、国民のために私は働く」

当時のドイツは、第一次世界大戦の敗戦国として、
今の日本とは比べ物にならないほどの大不況、低迷期でした。
そしてヒトラーはまず何よりも、雇用の創出を図り、
この党大会時点で、それは成功しつつありました。

ヒトラー自身も愛国心に燃え、貧しい国民のために
強固な国をつくり、発展させることを、本当に目指していたように
見受けられました。

……それほど、演説が巧妙だったということでしょうか。
思わず私も「ハイル!」と言いたくなりましたから(笑)

さて、ヒトラーの演説映像などは、実は動画サイトなどでも
見られるのですが、演説時はいかめしい顔をしている総統。

オープニング、飛行機から降り立って民衆の歓呼に応える
総統の、良い笑顔に思わず私の顔もほころびました。

作中、何度かヒトラーの笑顔が拝めました。
これ、とってもレアなんじゃないかと。

……と、下らない感想でした。
念のために書き添えておきますと、私は別にヒトラー崇拝を
しているわけではありません。彼の著書「我が闘争」も
読みましたが、彼の思想を全面的に支持しているわけでは
ございませんので、あしからず。

さてさて、今の日本に、ヒトラーの100万分の1でも
愛国心のある政治家が、果たしているでしょうか。

2010年2月 3日 (水)

映画見ました「戦場のピアニスト」

もう8年前の作品になります。「戦場のピアニスト」を見ました。
見始めてから気がついたのですが、たぶん以前に、テレビ放映で見たことがあったようです。断片的に覚えていました。

以下、ネタバレ等があるかもしれません。見たくない方はここまでにして下さいまし。










戦場のピアニストは、シュピルマンというユダヤ人ピアニストの体験記を元に作られた作品で、主人公もシュピルマンです。なんだか最近、ユダヤ人ものばかり見ている気がするけれど、気のせいかしら……。
ポーランド在住のユダヤ人ピアニスト、シュピルマンが、太平洋戦争の渦中に巻き込まれ、乗り越えていくというストーリーです(端的に書きすぎた!)。
ポーランドは戦争初期にドイツ軍の侵攻を受けた国です。ユダヤ人狩りがあり、ゲットーに入れられ、さらに強制収容所に収容されそうになるところを友人に助けられ、逃亡生活が始まります。匿われ、裏切られ、終盤では周りに一人の味方もおらず、主人公にセリフがありません。ひたすらに食料を探し、水を求め、生きようとあがきます。終戦が告げられ、ピアニストとして返り咲くまでが描かれていました。
「戦場のピアニスト」と言うと、イメージとしては「戦火の中でも一人ピアノを弾き続けて、愛した街とともに、そしてピアノとともに命を落とす」というような感じがしましたが、別にそういった話ではなく、むしろピアニストが主人公の割に、ピアノを弾くシーンは少ないと感じました。ただただ、戦争の酷さと悲惨さ、当時のユダヤ人への暴力などに強烈な印象を覚えました。
それもそのはず、原題は「The Pianist」、つまり「ピアニスト」でした。要するに、シュピルマンの伝記だったわけです。それを邦題で「戦場の」なんてつけてしまったので、大誤解してしまったのですね。

現代っ子の私には、「なぜ」という疑問符が常に付きまとっていました。なぜユダヤ人を激しく差別し、家畜以下の扱いをし、簡単に殺していくのか。そして、周囲の人間は、なぜそれを諾々と受け入れるのか。もちろん、受け入れなければ自分たちも殺されるわけですが。
アドルフ・ヒトラー著の「わが闘争」の中に、ユダヤ人についての記述がたくさんありました。彼の育った時代は、あまり恵まれた時代ではなく、ユダヤ人の富裕層を批判しながら育ってもおかしくありません。しかしながら、人をあれほどまでの非人道的な行動にかき立てたのは一体何だったのか。彼の生い立ちだけで説明がつくとも思えません。

ともあれ、今ではこういった生の体験が本や映画という形になって世の中に出るようになりましたね。私たちのような戦争の「せ」の字も知らない人間にも、その酷さの何割かは感じることができます。せっかく良い世の中になったのですから、教訓を生かせる世界にもなってほしいと思います。

2010年1月14日 (木)

「ゼロの焦点」を見てきました

ブログネタ: 映画館でエンドロールは最後まで観る?参加数

ちなみに…(冒頭で「ちなみに」もないものだが)、エンドロールは面白そうなら見ます。エンドロール中にエピローグやメイキング映像が出たり、最後の最後で何かがありそうだったり、邦画ならキャストを読んだり。あとは、混み具合で判断しますね。混んでいる映画なら、あえてエンドロールの途中で出ていくことで、スムーズに帰るとか。

さて、成人の日の11日、友達と映画を見に行ってきました。
スマーク伊勢崎のシネマ。見たのは「ゼロの焦点」でした。松本清張原作です。
一部ネタバレがありますので、まだ見たことがなくて、内容を知りたくないという方は読まないで下さいね!読む方は自己責任でお願いします。

有名な本なのであらすじは割愛しますが、かつて、たぶん小学生の頃に原作を読んで、中学時代くらいにテレビで見たことがあったかな?という、うろ覚えの状態で見ました。
やはり、良いものは良い。
主人公であり鵜原の妻を広末涼子が演じておりましたが、現代っぽさがなく、昭和の中頃当時のセットによく馴染んだ演技でした。個人的には室田氏の妻への、身代りに自殺してしまうほどの愛情を、もう少し描いてほしかったなと思いました。なんとなく冷えた夫婦関係のようで、確かにそれなりのシーンはありましたが、「愛情?」とクエスチョンマークのつく部類のように感じました(感性の問題かしら;;)。混乱した妻を抱きしめてなだめるシーンにはジーンときましたが、どことなく唐突な印象でした。基本的に身勝手な夫という設定だっただけに、ですね。
多くの人が亡くなる話(元が推理小説だから当たり前)ですが、ラストで主人公が、犯人に危害を加えるのではなく、一言、彼女の「名前」を呼ぶというシーンには、緊張と驚きと、少しだけ安堵を感じました。そこが、清張の凄さでしょうか。
ストーリーの背景には、戦後、占領軍の支配下にあった日本で、米軍に春を売っていた女性(作中では「パンパン」と言われていました)たちが、その過去をひた隠しにしようとする思いと、そんな彼女たちへの世間の目などがあります。そんな歴史を繰り返さぬようにと、今では当たり前のように言われていますが、彼女たちへの偏見があって当たり前(人権がなくて当たり前)だった当時の作品が、我々にそう語りかけてくるのですから、文学とはすごいものですね。……小学生で、よくそんな小説を読んだものだと思いますが(笑)


そうそう、ゼロの焦点は公開終了間際だったということもあり……

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貸し切りでした!
「お席はすべて空いておりますが、どちらになさいますか?」
耳を疑いましたよ。

2010年1月 3日 (日)

『善き人のためのソナタ』 観賞録

2007年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞した、ドイツの作品です。
主演は亡きウルリッヒ・ミューエ。以前にちょっと書いた『わが教え子、ヒトラー』でも主演していた彼です。
別に彼のファンというわけではありませんが、強いて言えば……ただのドイツ好きですね。

正月にかこつけて、DVDを借りて来ました。
以下、ネタばれを含む私の主観を書き連ねますので、自己責任でお読み下さい。

 この作品では、ベルリンの壁崩壊前の東ドイツの監視体制が赤裸々に描かれていました。当時の東ドイツは社会主義国家です。主人公、ヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は国家保安省(通称シュタージ)の職員で、とある劇作家、ゲオルグ・ドライマンを危険思想等の疑いで、盗聴、監視します。ところがこの監視指令の目的の一つには、作家ドライマンの恋人、クリスタ=マリア・ジーラントを自分のものにしたいという、ヘンプフ大臣(政府の偉い人)の思惑が絡んでいます。さらに、その大臣に恩を売りたいヴィースラーの上官、出世を餌に……いや、脅しの種に作戦の”成功”を強要される主人公ヴィースラー……。
ヴィースラー大尉は「国家の裏切り者の正体を暴く」という正義を信じ、作戦を実行します。

盗聴器を仕掛ける際の鮮やかさ。劇作家ドライマンの外出の隙に、数人の男が鍵をこじ開け(しかもこじ開けられたことが分からないくらいに巧妙に)、電話線、電気のスイッチの裏に盗聴器を仕掛け、壁に線を這わせ、さらにその線にさえ気づかれぬよう、壁紙をきれいに元通りにしていきます。見ていると鮮やかで気持ち良いくらいの光景ですが、当時の監視体制の恐ろしさを感じます。東ドイツの国家保安省(シュタージ)の監視体制は、ナチスのゲシュタポやアメリカのCIAを凌ぐものと言われたそうです。

さて、劇作家ドライマンの盗聴生活が始まります。ヴィースラー大尉は淡々とその任務をこなしていきますが、次第に、ドライマンやその恋人クリスタ=マリアを含む数名の仲間たちの自由な思想、現体制への考え方などに引き込まれていきます。そんなある日、盗聴器の向こうから、美しいピアノ曲が流れるのを耳にします。ドライマンの友人であり、反国家的な演出家として演劇界から遠ざけられていた男。その男がドライマンに贈った楽譜が、「善き人のためのソナタ」というピアノ譜でした。ドライマンが自らその曲を演奏し、ヴィースラー大尉は盗聴マイク越しにその曲に耳を傾けます。「この曲を本気で聴いた者は、悪人にはなれない」というソナタに。

ドライマンの友人であり、彼にソナタを贈った演出家の自殺。この事件を機に、ドライマンは東ドイツの自殺の現状というテーマで、東ドイツの悲惨さを西ドイツの雑誌上で公開しようと動き始めます。無論、ヴィースラー大尉はその動きにいち早く気がつきます。しかし彼は悩んだ末、国境警備兵への連絡をせず、そして報告書にはこう記述します。「報告すべきことはなし」と。さらに時間交代制で盗聴を続けてきた相方を作戦から外させ、単独での監視を開始します。紛れもなく、ドライマンの計画を成功させるために。
しかし主人公ヴィースラー大尉の中にも苦悩は続きます。上官が彼に疑問を抱き始めます。しらを切りとおすヴィースラー。

そんな彼の苦悩を映し出すようなやりとりが、同じアパートに住む子どもとの間にありました。彼と同じエレベーターに、ボールを抱えて駆け込んできた少年との会話です。

子ども「おじさんはシュタージなの?」

ヴィースラー「シュタージを知っているのか?」

子ども「うん、知ってるよ。悪い人なんだって。いろんな人を捕まえたりするって、父さんが言ってたよ」

ヴィースラー「名前は何と言うんだ?」

子ども「……ぼくの名前?」

ヴィースラー「……その……ボールの名前さ」

彼はここで、本来ならばその子どもの名前か、子どもの父親の名前を聞いておくべきだったはずです。父親を逮捕するために。子どももそれを察して身構えていました。けれど彼はしませんでした。「悪い人なんだって」。少年のその言葉が、「善き人のためのソナタ」を聴いてしまった彼の心に、痛みを感じさせたのでしょうか。

こうしたヴィースラーの変化に、知らぬ間に支えられながら、ドライマンの記事は西ドイツの雑誌で発表されます。ヴィースラーの上官、そして作戦を命じたヘンプフ大臣の激怒により、ドライマンの恋人クリスタ=マリアが拘束されます。そしてその尋問をヴィースラーが任されます。
「君はまだ、同士のはずだな」
上官の言葉に、またしても彼の心は揺れます。
ドライマンが記事を書いたタイプライターの隠し場所を話せ。彼は巧妙に尋問を進めます。クリスタ=マリアは口を割り、釈放されます。彼女の帰宅後、ドライマンの家は家宅捜索を受けます。クリスタ=マリアの供述した場所に、シュタージの一人が手をかけると……


数年後、東西ドイツは統一を果たします。シュタージによって監視されていた情報は国民に公開され、劇作家ドライマンは、自分についての監視情報を閲覧します。そして彼は、報告書の最後のページに、赤いインクの跡を見つけます。それは彼が使用していたタイプライターのインクでした。彼は知るのです。証拠品のタイプライターを持ち去ってくれた報告者、コードネームHGW XX/7 のことを。
シュタージの家宅捜索で、タイプライターは発見されませんでした。しかし、恋人を裏切り、隠し場所を密告したと思い込んでいたクリスタ=マリアは、その場から逃げ出し、表の通りで車にひかれて命を落としていたのです。

さらに2年後、「善き人のためのソナタ」という本が出版されます。一国民になった(と思われる)ヴィースラーは本屋でその本を手に取ります。本の扉には、「HGW XX/7へ 感謝をこめて」と書かれていました。彼は迷わずその本をレジに持っていきます。

「プレゼント用の包装をいたしますか?」
「いや、自分のためのものですから、結構です」

彼はささやかな幸福を手に入れることができたでしょうか。映画はここで終わりました。


長々と雑感も含めながら書いてきましたが、今回は悲劇でなくてよかった!というのが感想です。もちろん、完全なハッピーエンドではありませんでした。悲劇もありました。けれど、救いもありました。監視した側とされた側が、社会的背景の変化にも助けられ、分かりあったという、何とも言えない安堵感がありました。主人公はドライマンをかばったことで、閑職にまわされ、みじめな数年間を送っていました。そんな彼の一方的な思いが、何とも無機的な報告書によってドライマンに伝わり、さらにその気持ちが、温かな一冊の本として返されている。なんともホッとするラストです。
ヴィースラーのラストのセリフ、「自分のためのもの」というのは、かつての彼なら絶対に口にしなかったと思います。彼は主人公でしたが、その私生活にはほとんど触れられていませんでした。ケチャップをかけて口に放り込むだけの食事、欲望のはけ口のためだけに買った商売女。彼が本当に「自分のために」手に入れたものは、一切見えてきませんでした。密かに思いを寄せていたであろう、クリスタ=マリアに対しても、死に際に一瞬抱きとめ、離してしまいます。その彼が、自分のために本を買うというラスト。それも清々しい表情で、自分のためのものだと語る彼の中に、これまでのストーリーの怒りや悲しみの全てを帳消しにする安心感を、私は感じました。そういう経過で、「悲劇でなくてよかった!」という心情になりました。

それにしても、旧体制の資料とはいえ、監視報告書を隅から隅まで、本人が閲覧できるというのは、さすがだと感じました。欧米諸国ではそれが当たり前のようですので、むしろ日本人の情報に対する意識が低いのでしょう。社会主義から一転して、徹底した民主主義への変化というのも、この映画の面白いところでした。ささやかでしたけれど。

それと一点、笑ってしまったところがあります。基本的にかなりシリアスな話でしたが、ドライマンのアパートについて。アパートとはいえ、日本のマンションのように、まず共同の大きな玄関があり、さらに各部屋に入口があるというタイプですね。その共同の玄関の内側左手の壁に張り付いていると、玄関から入ってくる人が見事にスルーしてくれるというシーンが2度ありました。1度は、ドライマンが恋人の帰宅を見つけた時。2度目は主人公ヴィースラーが家宅捜索の直前に、恐らくタイプライターを持ち出すために忍び込んだ時。どちらも見事にスルー。横目で見えないのかよ!とツッコミたくなりました(笑)


さて……お正月休みもラストです。明日からの仕事の前に、映画の余韻をゆっくりと堪能するとしましょう。

2009年8月 8日 (土)

「わが教え子、ヒトラー」 私に癒しを

DVDが準新作になっていたので、ようやく借りて見ました。
以下、一部ネタバレになりますので、興味があってこれから見ようと思っている方は、お読みにならないことをお勧めします(自己責任でお願いします)。






舞台は1944年のナチス・ドイツ。主人公はアドルフ・グリュンバウムというユダヤ人の元俳優。16年前にもヒトラーに演説の指導をしたことがあるという理由(他にも色々とあるが)で、すっかり自信も気力も精神の均衡も失ったヒトラーに、再び昔のような演説をさせるための指南役として、ユダヤ人収容所から総統官邸に移送されました。
ちなみに、ヒトラーに演説の指導役がいたことは史実のようですが、ユダヤ人だった等は不明であり、グリュンバウムは架空の人物と思われます。

まぁ色々あって、時にコミカルで喜劇的な要素も含めつつ、悲劇のようでもあり……非常にテンポよくストーリーが進んでいきます。結末が何となく予想できるような話でもあり、重厚さとか奥深さはやや足りないような気もしますが、ユーモアたっぷりで見る人を飽きさせない作品だと思いました。

ところで、作中でグリュンバウムは何度もヒトラーに自律訓練法と精神分析を組み合わせたような手法を用いていました。ヒトラーが晩年、精神的に追い詰められ、心の均衡を失っていたことは、有名な話ですね。たぶんその話と、史実上では正体不明の演説指導者の2つをかけあわせて、この作品ができたのだと思います。
初めは頑なに「ユダヤ人の指導など受けん!」と拒絶していたヒトラーが、次第に主人公を信頼し、自信のなさ、不安、不眠などを訴え始めます。そして、ヒトラーの幼少期の心の傷にまで迫っていきます(笑)小石を飛ばすパチンコをくれた父。パチンコでハトを撃ったこと。そんな父とのエピソードが楽しい思い出として語られた一方で、翌日には、父からの一方的な虐待(これは史実のようで、厳格な父だった)と、その父への過剰攻撃とも言える言葉が語られました。夜中には悪夢にうなされ、大晦日の夜には孤独に耐えられず、主人公の部屋を訪問し、主人公とヒトラー、そして主人公の妻が川の字になって寝ると言うあり得ないシーンまで(笑)しかしここで初めてヒトラーは、家族の温かさを感じているようでした。夜中に主人公の妻がヒトラーに枕を押し付けて殺そうとしたのですが、それにも気付かずに幸せそうに眠りこんでいました。

あまりに盲目的に従順に、まるで子どものように主人公に対して心を開いていくヒトラーを見ていると、ヒトラーが可哀そうに思えてきました。主人公にはそれなりの打算があり、別にヒトラーを癒そうなんて思っていないのです(少なくとも途中までは)。
私は別にナチス肯定者ではありませんが、人物としてのヒトラーには昔から興味がありました。だから多少、同情的になるのでしょうか。
実際にもヒトラーのそばに理解者がいたら、何かが変わっていたでしょうか。

この映画のテーマは、「私にハイル(=癒し)を」だったと思います。意味としては二つありまして、ひとつは、精神の消耗に苦しむヒトラーが主人公に対して実際に述べていました。ヒトラーの心の叫びだったのでしょう。もうひとつは、声が出なくなったヒトラーに代わって演説の吹き替えをした主人公が、銃で撃ち抜かれながらも今わの際にマイクを通して言った言葉で、民衆がそれに賛同して叫んでいました。戦争の終わり、独裁の終焉、平和を取り戻すという願いを伝えたかったのか、あるいは「ヒトラーが民衆に愛を与えたことにしたかった(私に癒しを=民衆一人一人に癒しを…と解釈)」のか……。最後の主人公の意図は、視聴者の手に委ねられていました。

史実でもバリバリのアダルトチルドレンだったヒトラー総統。
彼に関する書籍はたくさん読みましたが、うーん、さすがにドイツ映画だけあって、ちょっとヒトラーに同情的だなぁと思いました(笑)